otoko
2017年 04月 02日
問題解決能力に疑義<上>
最近自分で分からなくなったことがある。「自分の能力って何だ」という事である。今までは確たるものが有った。「問題解決能力だ」と信じて疑わなかったからだ。それが揺らいでいるのである。
昨年からその揺らぎは大きくなった。きっかけは、将棋の世界で、プロの元名人のタイトル保持者とコンピュータ・ソフトとの対決でプロ棋士が負けたことであった。
元名人位者は過去の知識や経験の蓄積を基に、相手に勝利することを狙って全知全能を振り絞ってコンピュータ・ソフトに対決したに違いない。「問題解決能力」の戦いである。そこで生身(なまみ)の人間が負けたのである。
将棋のゲームの進め方を知っている人は、誰しもこの揺らぎを感じ取ったに違いない。名人位のプロの能力がたまたま劣っていたと片付けられる問題ではないのである。自分自身の日常生活の問題解決能力も同様の問題を持つという事を知らされたからである。
「自分が身に付け知っているというノウハウの値打ち」に疑義が生じているのである。昔から「知っているという事と、出来るかという事は別だ」と、先輩からよく叱られたものだ。「知っていても、出来なければ意味がないではないか、理屈を言うな」と言うのである。
今やまさに将棋の世界でも、「知っているか」ということも、「出来るかと」いう事も、コンピュータの能力に劣る世界が来たのである。
(久山 稔)