わかやま新報女性面 (隔週金曜日)記事を発信-NPO法人「和歌山コミュニティ情報研究所」の女性スタッフが取材・編集を担当


by mako0491

<   2011年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧


色川村に移り住み4年
百姓見習い中の春原麻子さん



最近、「産消提携と地域環境の今」というフォーラムが和歌山大学生涯学習センターで開催された。現代社会の食と農のあり方について深く考えさせられた一日だった。パネリストの一人、春原麻子(すのはら・あさこ)さんの生き方がユニークなので紹介したい。
  (中村 聖代)



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環境問題に触発されて

 春原さんは箱根大学駅伝で有名な横浜市の権太坂すぐ近くに生まれ育った。感受性豊かな10歳の頃「地球環境サミット92」が開催されたりして、環境ブームだった。そのため「環境問題」について強く影響を受けた。
東京大学総合文化研究科の修士課程中、「環境に悪そう」な仕事はしたくなかったため、「田舎」「農業」をキーワードに、働く場所を求めて全国を訪ね歩いた。そのとき勝浦町色川地域(いろかわ)に移住して30年になる大先輩に出会い、彼の思いと自身のやってみたいことが一致し、修了と同時に移り住んだ。

【移住者の多い町】
那智勝浦町の山あいに広がる色川地域は棚田の美しい山里、かつては林業と鉱山で栄えた山村だが、人口は減少し続けた。現在は9集落、人口は234世帯443人。うち新規定住者は62世帯、161人いる(平成21年4月現在)。
30年前から積極的に移住を受け入れた結果Iターン組が徐々に増え、現在のように住民の3分の1を数えるまでになったのだ。
色川は「移住受け入れで成功したむら」として有名であるが、本当に成功しているのか?現実に色川で生きていくうえで必要な知恵や技術が伝わっているのか、例えば年に数回の祭りも古老に逐一訪ねないと満足にあげられないといったことも。
「むらの大切なものをしっかり見つめ、次世代に受け継ぐ流れを生み出さねば」という思いが、「百姓養成塾」を先輩とともに立ち上げたきっかけであった。

【百姓養成塾とは】
春原さんは、「百姓養成塾を言葉で説明するのは難しい。本当に大切な、絶やしたくないものは目に見えないから」と言う。
田舎暮らしを真剣に考える若者に、直接地元のお年寄りと接してもらい、むらで暮らすうえで何が大切か、自ら学ぶ機会を提供したいと考え、
・若者と地元の人たちとの出会いをコーディネイト。
・長期・短期の滞在受け入れ。
・色川、百姓塾だけでなく近隣の村や麓の町の職人たちとの繋がりを強める。
などなど地域の繋がりを取り戻すことなら何でもやってきた。

【これからのこと】
現在「百姓養成塾」の活動は、地元の方たちが引き継いでいる。この取り組みをどんなどの地域でも導入できる普遍的な体制―地元住民と集落支援員とで、地域にやってくる若者に対応する体制なら、全国どこでも可能できるはずだと考えたからだ。
春原さんは言う。
「スイッチひとつで何でもでき、お金を出せば何でも手に入る時代に生まれた私たちは、一切を奪われたとき、自分の力で水一滴飲むことができません。そのことに気付いた時、愕然としました」。
「3年間事務局をやり、昨年4月からフリーになりました。百姓の仕事をまずしっかりとやり、次どうしていくかを模索中です」。

【どうにかこうにか】
「今年、宮総代の役目を仰せつかりました。現在は小屋づくりを中心に、米・野菜を作り、鶏を飼い、炭を焼くといった毎日です」。
「栽培したお茶を売り、農事組合の仕事を手伝ったりして年収は50万程ですが、独身のせいもあってか、4年間で100万円貯められました」。
「そこそこ学歴があって、こうした生活をしているのを見て、(もったいない)とか言われますが、日々の暮らしをヒントに色々な事ができる、価値ある仕事だと考えます」。
「自分で道を切り開いていくには相当なエネルギーが必要なのです。そういう人生設計をした若者をもっと認めてほしいです」。
自身が生きるたくましさを身につけて田舎の担い手となること。そんな志を持つ仲間を増やして全国の田舎が受け継がれていくことこそが、自分なりの『環境問題』への貢献だと春原さんは考えている。
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by mako0491 | 2011-12-22 14:58 | アタマ記事

市場に行こう

都市における小売市場の復権とコミュニティの再生
                           和歌山大学経済学部
                               鈴木 裕範
「市民の台所」市場の変容
七曲、明光、駅前、堀止など、和歌山市の市街地には多くの市場が点在する。鮮魚、精肉、青果物、果物、日用雑貨など、地域性を背景にそれぞれに特色があり、長く地域住民の食材や日用品から衣料品までを整える場として発展してきた。いま、市場の買い物客は大きく減少し、目立つのは高齢者である。シャッターが下りた店舗―市場から「元気がない」といわれて久しい。
和歌山市における市場の「元気」の喪失は、1980年代のバブル経済の時代を経て目立つようになった・背景には、全国的な傾向と同様に社会経済の変化のもとでの輻輳する要因がある。
居住や公共機能の郊外への移転にともない中心市街地の空洞化が進んでいる、その一方で人口が膨らんだ郊外には車社会を背景に大型小売店やロードサイドショップが立ち並ぶ。車社会のなかで中心市街地へのアクセスは悪く駐車場も不足している。そして、市民の価値観やライフスタイルがある。さらに、市場側の対応―集客、魅力づくりの戦略をめぐる問題点などがあげられる。

市場という空間
市場には、市場がまとう独特の空気、色や匂いがある。威勢のよい声が響くのが、市場である。親しげで、温かく、ほっとさせる所。市場という空間が有する、ある種の猥雑さは、そこが人間の日常の暮らしを色濃く反映する場所であり、都市における数限りないドラマを生起するからにほかならない。名作『ローマの休日』のヒロイン、アン王女が「つかの間のアバンチュール」を体験し、社会に目を開くのは、「ボッカ・ディ・レオーネ通り」のあの「市場」が必要だった。そこは「日常の風景」であふれていた。
苦境に立つ市場が多いなかで全国には元気な市場がある。石川県金沢市の近江町市場は、平日でも買い物客の人波がつづく。日曜日や中央卸売市場が休みの水曜日の営業への努力(日曜日営業は七割)。「加賀野菜」のブランド化の推進、野菜マイスターやソムリエは市と市場が認定する。魚のさばき方教室に野菜の料理教室、宅配便による発送も行う。最近は観光客の増加が目立つ。しかし、市場組合幹部は言う。「近江町市場は市民第一、まず市民の台所。市民が行かない所に観光客も行かない」。そこにあるのは、市場は市民の「生活コミュニティ」の場である、という考え方である。

新たなコミュニティ空間としての市場の創造
 少子高齢化と核家族化の進行。綻びがみられるまち中のコミュニティをどのように整え直し、暮らしを守るのかは、今後さらに重要、深刻な問題となってくる。そうした時代に、市場だからこそ担える役割と機能がある。店頭での対面販売は情緒的に人と人をつなぐ。つながりは市場が有する特性であり、いま地域に求められているキイワードでもある。都市における「コミュニテイの中心的役割」として市場(市街地商店街)への期待は大きい。和歌山大学経済学部の私のところのゼミ学生が行なった「アンケート調査」でも市場を必要とする潜在的なニーズは存在している。新鮮な旬の魚や野菜、果物を安心して買えること以上に、市場に成立する人間関係を評価する声が消費者から聞かれた。市場には老いたものへの心配り、若い世代の女性たちやこどもたちに向けるやさしさ、人を大切にするまなざしがある。知恵や技術を伝えるところが市場である。スーパーやコンビニでは買えない、教育や福祉、人間学まであるのが、市場らしさである。

 
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市場関係者は、新たな顧客が「つてもて」来るような市場について大学生や若い女性たちの意見を聞いてはどうか(長崎市は二〇歳以上の女性ばかり千人にアンケートをとった)。一方、消費者である市民の側からの、市場へのアプローチも必要である。「新鮮で安い食材」が和歌山の市場にある。伝統野菜に和歌山の美味い魚、その食材の美味しい食べ方。市場には料理の“プロ”や目利きがいる。食が注目される現在だからこそ、地元の市場に目を向けてみたい。その仕組み作りには、行政の力が必要である。

市場には、多面的な価値がある。その市場という空間には、人と人をつなぎ直し、老いが進む町なかの暮らしと安全安心を守るコミュニティの拠点としての役割を担う可能性が期待される。市場を活性化し、地域再生に貢献する─、市場議論を起こそう。その前に、あの有名なコピーを拝借して、「そうだ、市場へ行こう」。


参考
和歌山大学・和歌山社会経済研究所・和歌山商工会議所で組織する和歌山地域経済研究機構の研究組織「和歌山市・市場活性化研究会」は、2010年3月に『和歌山市における市場活性化についての研究』をまとめた。鈴木は同研究会主査をつとめた。                            。
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by mako0491 | 2011-12-22 14:54 | アタマ記事

演歌の月川るりさん


 テレビ和歌山の歌番組に出演したのがきっかけで、作・編曲家の井上善日居(いのうえ よしひこ)さんにスカウトされた月川るりさん。2006年7月には日本クラウンからCDデビューした。「あなたは幸せ 恋の鳥」に始まり、「浪花情炎」「恋の専念寺」と次々に発表。2010年11月に「月川るり5周年記念作品」を出した。順調な経過をたどっているように見えるが、厳しい芸能界に生きる本人にお話を伺った。(中村 聖代)

【演歌を子守唄に】
 「母が演歌好きだったので、歌といえば演歌でした」。
子供時代に見るTV番組は漫画やヒーローものが定番と思うが、月川さんは小さい時から歌番組で演歌を耳にしていたという。離婚後、一人で幼い子供3人を抱え、育てたお母さんは、並大抵の苦労ではなかったはず。演歌を心のよりどころにして、さまざまな事柄を乗り越えてきたのだろう。
そんな母親を見ていたるりさんは、「大きくなったら大好きな演歌の歌手になって、お母さんを幸せにしたい」と、幼な心に誓っていた。

【幸せな境遇】
「近くに親戚がいたので、寂しいと思ったことはありませんでした」。
和歌山は田辺市に住んでいたるりさん。温かな人たちに囲まれて育った環境が、現在の彼女をつくっている。二人の弟たちと母親、それに近くの親戚で支えあってきたから今頑張れるのだ。

【社長になって】
20歳で井上さんにスカウトされた後、大阪のプロダクションに所属。レッスンを受け、1年後にはCDを出せた。トントン拍子の状況だったが、2009年2月に、突然社長が亡くなってしまった。所属歌手は、るりさん一人の小さな事務所だった。
そのため、るりさんは一人でプロダクション「月川るりミュージックプロダクション」を立ち上げた。マネージャーも社員もいない、社長の自分が、何もかもこなさなければならない。るりさんは活動の拠点を和歌山に持ってきた。
「やっぱり和歌山にもどってくるとほっとするのです」。
 毎日が営業活動。ストレス発散は友人と遊ぶとき、という。

【お客様に支えられて】
 「大阪のライブの歌謡劇場2か所で月1回ずつ出ています」。
「最近、東京でも仕事がありました。もっとメジャーになって、東京に定住したい」と話す。
 ファンクラブも各地にでき、固定ファンが少しずつではあるが増えてきた。

e0171960_1445050.jpg【5周年に入って】
 芸能活動を始めてから5年になった。
昨年の11月3日は大阪、12月19日には和歌山で5周年記念パーティを開催した。いずれも150名以上が集まり盛況に終わった。
また、今まで発表できなかった楽曲を集め、自分の事務所からアルバムとして出した。
・夢見酒
・朝吉心妻
・あなたの愛に
・邪推
・熊野川
タイトルだけを見ても、いかにも和歌山らしい雰囲気がでている。
「演歌は人生を教えてくれます」。
若干26歳の、るりさんを是非応援したいものだ。
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by mako0491 | 2011-12-22 14:45 | アタマ記事


 名古屋駅から歩いて10分ほどの近くにある、江戸の町並みや昭和の匂いが残る商店街の活性化が進んでいる。JR和歌山駅から2分歩いたところにある美園商店街の今後の動きにも大きなヒントを与えてくれる。名古屋のあるく下町情報誌「ポゥ」(paw)の編集長の飯田幸恵さんに、寄稿してもらった。

【まちなみ保存地区】
2010年、開府400年という節目の時を迎えた名古屋。さまざまな催しや企画で盛り上がった年となりました。名古屋城築城の際に物資を運ぶため掘られた川が堀川ですが、四間道(しけみち)・円頓寺(えんどうじ)界隈はその堀川に隣接しています。
 元禄13年(1700年)、1600軒以上の家屋が焼失した大火があり、尾張藩が考案したのが、道幅を四間に広げ、盛り土を高くし、東側を土蔵造りに、西側に格子長屋を並べるという防火策。その風景が現在も残るのが四間道です。名古屋市のまちなみ保存地区に指定されています。
 かつては1000軒以上並んだと言われる蔵ですが、現在は10軒ほどしか残っていません。しかし戦火を免れたこの界隈には、昔のままの細い路地が多く残っています。
 10年ほど前、町屋を改装したカフェが出来たのをきっかけに、古民家を利用した、隠れ家のようなお店が次第にでき始めました。
 
【多様な人が得意分野で活動】
一方、円頓寺商店街は、かつては、向かいの店が人で見えないほど賑わったそうですが、昭和30年代を境に、名古屋駅の発展に客足を奪われ、衰退の一途を辿っていま
す。
 そんな中、江戸・明治・大正・昭和といったさまざまな時代を感じることができる、この界隈を、もっと多くの人に知ってほしい、またこの界隈に住んでいる人たちにも、
この町の良さを再認識してもらいたいという思いから作られたのが情報誌「ポゥ」です。
 5年前女性3人で立ち上げ、自由な発想で創刊しました。
 それに続き、20代~40代の商店主たちを中心に、まちづくりを多面的に考えようと発足した集団が那古野下町衆(なごやしたまちしゅう)。
商店主だけでなく、大学関係者、学生、コンサルタン
ト、建築家など多種多様の人たちも加わり、空き店舗対策チーム「ナゴノダナバンク」、時代テーマに合わせたまち歩きができるマップ製作チーム「なごあるき」、下町を生かしたイベント「名古屋下町散歩日和」の開催など、メンバーの得意分野を生
かしつつ、いろいろな活動をしています。
 その一つ、ナゴノダナバンクは、空き店舗という難しい問題に対し少しずつですが、成果をあげています。また、この町を元気にしたいという、外部のお母さんたちが「げんき会」を立ち上
げ、「ごえん市」というフリーマーケットを6年続けています。
 今この界隈は、この町に魅力を感じてくれる、多くの皆さんの力を借りながら、町の活性と保存に取り組んでいると言えます。

【映画製作もスタート】
高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅から歩いて10分ほどで、江戸時代の街並みや、昭和の商店街が残っている場所は、数少ない貴重な所です。 
まちづくりに関わる人達も、ここに暮らす人達も、みんなこの町が大好き
で、この町を大切に思っています。
 遂には、この界隈を舞台にした映画製作もスタートし、とても楽しみです。
ここ5,6年で、めまぐるしくいろいろな活動が出来てきました。まちづくりは、10年~20年かかると言われます。息切れしないように、皆さんの力を借りながら、この地域を生かしたまちづくりを、焦らずに考えていければ良いのではないでしょうか。
微力ではありますが、私達の情報誌「ポゥ」も長くがんばっていきたいと思っています。


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by mako0491 | 2011-12-22 14:35 | アタマ記事
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 前回の「龍神まちづくり」で活躍する女性たちに続いて、今回は、温泉旅館を長年支えてきた「女の細腕繁盛記」を紹介する。龍神温泉の中心地の元湯から10㎞も離れた場所にあるが、人気のある丸井旅館。小さい時から母親を支え旅館を切り盛りしてきた。「おもてなしの心とは何か」に応えてくれる、そんな女将(寒川淑子さん)に話を聞いた。
(中村 聖代)



【大阪で料理を習った父が創業】
 今の地で旅館を始めたのは二男である父親が分家したためであった。そのため父は大阪で料理の修行も経験した。祖父も最初は手伝っていたようだ。
旅館とは言っても、元湯からかなり離れた宿。龍神温泉まで来る行商の方たちが途中で泊まる宿、今で言うところの民宿のはしりのようなものだった。
 終戦の一か月前に父親が戦死。戦争に行くとき「あとを頼むよ」と言った父の顔を、今でもしっかりと覚えている。 
女手ひとつで娘3人を抱えた母親、「自分がしっかりして母を助けなければ」――小学生の淑子さんは、そう思った。料理を習いに行く余裕もないが、どんな機会も逃さず、研鑽を積んだ。お客様に少しでもおいしいものを食べてもらいたい一念からである。

【子供も後を継ぐ】
 3人の娘を抱えて女将をしていた母親、そのあとを継いだ今の女将。母親の働く姿を見て育った子供は、やはり理解がある。寂しいと思うより、感謝の気持ちが現れるようだ。 
長男は誰が言うまでもなく、料理の修行をし、自然にあとを継いだ。現在は妻の若女将と一緒に旅館を支えている。長女の夫は、サラリーマンであったが、現在は番頭(支配人)として、こちらも義母を支えている。

【温泉、タンクで運ぶ】
「龍神に来たからには、温泉に入りたい」。龍神が脚光を浴びるようになると、一般のお客様も増え、そうした声も強く聞こえるようになった。「どうしても温泉の湯に浸かって頂きたい」と考えるのは当然の成り行きだ。
元湯からの距離がありすぎて、パイプでつなぐことは不可能だ。なら、どうやって?
おかみの一念は岩をも通した。ロケーションの良い場所は道路を隔てた向こう側、そこにタンクで運んできた温泉を沸かして流す。道路を横切るような危険なことを客にさせるわけにはいかない。地下道を作って温泉に浸かってもらう。
そうしたアイデアが浮かび、実行にこぎつけるまでにかなりの年月がかかった。

【手製のお漬物】
 女将は今でも自分で農作業をし、そこで出来た根菜類の漬物を一年中客に出している。食膳の梅酒も手作りだ。 
大きな観光旅館と同じようなことをやっていては対抗できない。それと勝負するには、「心からのおもてなしをする」ことだ。そのためには地元の山や川で採れた食材を生かした個性的な料理を提供することが欠かせない。

【後発の旅館と連携】
 龍神には、元湯の観光協会があるが、まだ温泉を引いていない後発の旅館も見受けられる。そうした旅館とも協力しながら、それぞれに個性を出しながら連携して、新たな地元への貢献をしたいと考える。
海外旅行をする方が安くあがる昨今。国内の観光業界、特に大規模な旅館ほど、凋落ぶりが著しい。丸井旅館のような規模の旅館がこれからの国内で生き残る方法のひとつではないだろうか。
他では得られない個性ある料理・ロケーション・何よりも「心」が問われるのではないだろうか。項

<平家の公達と娘の悲恋伝説>


有名な悲恋の伝説がある。高野山から龍神に流れ着いた平清盛の孫 維盛と、身の回りの世話をしていた19歳の娘お万の恋である。
寿永四年(1185)2月、平家が頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗を靡かせ屋島に乱入した。法印湛僧は平家を裏切ったのである。
平家の滅亡を知った維盛は山頂で護摩木を積み、火を放ち行く末を占ったが、一条の煙は突如倒れ地肌を這った。地を這う煙は凶兆を示していた。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、お万に別れを告げ、屋敷を去り那智の瀧(海という説もある)で自決した。 お万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、清流に紅を溶かし最後には淵に身を投げ捨てた。
 その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、お万が白粉を流したところを白壷、紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、現在も伝説として継承されている。(龍神村誌より)
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by mako0491 | 2011-12-22 14:02 | アタマ記事

湯浅の観光振興

11月11日付けあたま

(前文)
 先日「イオンモールりんくう泉南」に立ち寄った際、湯浅の町を宣伝する元気な声があった。湯浅町の産業観光課主事の栁谷静香さんだった。聞けば、「鯖っと鯵まつり」があるというので、出かけることにした。彼女にスポットを当てながら、町おこしに頑張る皆の姿をお見せしたい。
  (中村 聖代)


【10年目を迎えたまつり】
 「ゆあさの鯖っと鯵まつり」の主催は、湯浅町産業観光課と湯浅町商工会TМО(Town Management   Organization)=中心市街地における商業まちづくりをマネージメント(運営・管理)する機関。様々な主体が参加するまちの運営を横断的・総合的に調整し、プロデュースするのが役割である。
島之内商店街振興会が主催する春の「シロウオまつり」と並ぶ2大イベントである。
 参加団体は、湯浅町の観光協会、商工会・湯浅湾漁業協同組合・湯浅水産物商業協同組合、寿司仕出し組合、旅館組合・湯味会・湯浅クラブ・湯光会・食生活改善推進協議会などである。つまり町をあげての「おまつり」なのだ。
 柳谷さんは、この日のメインイベント「SABA娘AJI娘コンテスト」の司会をしていた。湯浅在住もしくは出身、あるいは湯浅で勤務する18歳以上の女性2人1組でエントリーしてもらい、コンテストするもの、その日若くて活発な2人が選ばれた。
【いっぷくする店】
 その日お昼に立ち寄ったお店は、若い主人が一人切り盛りしていた。古民家をそのままお店にした北町茶屋、平日なら、2軒隣の魚屋で買った食材を調理してくれるという。聞けば、賄い用に買ってきて調理していたものを、お客も食べたいと言い出したかららしい。Uターンの若者が出すお店ならでは。
【町人が皆協力】
湯浅町商工会女性部は街中の展示場でお茶とお菓子を供していた。この展示場は常設で、町おこしに10年位前から協力している。第1回の醤油サミットもここで開催された。
中町にある「甚風呂」も訪れた。ここは江戸時代に開業し、昭和の終わりまで営業していた大衆浴場。正式名は「戎湯(えびすゆ)」。改築によって浴場部分は当時のまま展示保存し、主屋を古民具の展示資料館として一般公開されている。ここにも民間のボランティアが大勢助っ人に来ていた。
【今後の課題】
「鯖っと鯵まつり」は、毎年大好評で、しらす丼は午前中に売り切れ、お手伝いの住人女性から「来年またおいで」と言われてしまう程。一時に大勢が詰めかける場合どこでもそうであるが、駐車場とトイレの確保が大変のようだ。
筆者は電車で行ったが、JRの駅員に会場を訪ねても要領を得ない。少し行けば、商工会のレンタサイクルがあり、チラシが置いてあった。電車で来る者への配慮が欲しいところ。
 また、この湯浅町TMOは、全国でも数少ない成功例と聞く。それを目の当たりにして、あらゆる町のTMOが成果をあげることを期待したい。
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by mako0491 | 2011-12-13 18:04 | アタマ記事

カラオケポリープご用心

忘年会、新年会シーズン到来
「カラオケポリープ」にご注意
マイク独占はご法度
自分の声域の曲を選ぶ
(前文)15字×13行 
忘年会シーズンがやって来た。年が明けると新年会。カラオケが得意な人たちにとってはまさに腕の見せどころ、いや、のどの聞かせどころだ。ところが例年に年末から年始にかけて、声がかすれるなどのどに違和感を訴えて耳鼻咽喉科に駆け込む人が急増する。声帯の酷使による「カラオケポリープ」だ。マイクを独り占めにしたり、無理に高い音域の声を出し続けたりする人に多いというから要注意だ。(高堀 琴世)
(本文)15字×98行
小見出し
「直径5㍉大にも 進むと手術で切除」
 カラオケポリープの正式名は「声帯ポリープ」。声帯は空気の通り道の喉頭(こうとう)の中心にある。長さは2㌢ほどで、息を吸う時にはV字形に開き、声を出す時には閉じて、その隙間を息が通り抜けると声帯が震え音になる。振動回数は女性の場合、通常の会話で1秒間に250回程度、ソプラノのような高い音を出す時には1000回以上にもなる。
のどを酷使していると、声帯粘膜の一部が炎症を起こし内出血して血豆ができる。これが硬くなって小さなコブ状になるのが声帯ポリープだ。大きさは直径2~3㍉から5㍉ぐらいになることもあり、声帯の閉まりが悪くなって声の調子がおかしくなる。
ポリープが硬く固まると切除するしかないが、軽い場合は炎症を抑える薬を飲んだり吸入したりして様子を見る。その場合でも極力のどを使わないで静かにしておくことが大切。いわゆる〝沈黙療法〟だ。病院によっては「言語聴覚士」という国家資格を持つ人がいて、のどに負担をかけない発声法を指導してくれる。
(小見出し)
「和田アキ子も 一十三十一も」
 声帯ポリープになりやすいのは大きな声を出すことが多い歌手や教師、保母さん、営業マンなどだが、最近は頻繁にカラオケに通う人たちにも目立つ。ポリープの切除手術を受けた歌手には和田アキ子、永井真理子、一十三十一(ヒトミトイ)、徳永英明、EXILEのATSUSHIと例を挙げるときりがない。
一十三十一の場合、3年前の2008年春、活動を休止して切除手術を受けた。通常は全身麻酔して行うが、手術直前に妊娠していることが分かり局部麻酔で行ったという。初めての入院で、手術後ほぼ1カ月間は筆談でのどを使わない沈黙生活が続いた。12月に無事出産した。
声帯ポリープに似たものに「声帯結節」がある。左右の声帯の中央部がペンダコのように硬く盛り上がるもので、これも歌手や保育園の先生、お坊さん、インストラクターなどの職業の人に多い。おしゃべりが大好きな女性に多いのも特徴だ。今年9月にもAKB48のメンバーの一人、板野友美がこの声帯結節と急性声帯炎と判明、しばらく歌手活動を休止した。
「ポリープ様声帯」というのもある。声帯全体がブヨブヨに腫れて、ひどくなると呼吸が苦しくなるもので、たばこをよく吸う中年以上の女性に多い。
声帯ポリープの中には「咽頭がん」の初期症状と似たものがある。ポリープは通常赤いが、がんは白いことが多い。見分けがつきにくい時は組織細胞を採って顕微鏡で調べる。このがんもたばこを吸う人に多いが、性別では男性が圧倒的という。
(小見出し)
「過度な飲酒は粘膜内出血の恐れ」
 カラオケポリープ予防の第一はマイクを独り占めにして何曲も続けて歌わないこと。1曲歌い終わったら、しばらく声帯を休める。アメなどをなめるのも効果的だ。最近のはやり曲にはキーが高いものが多いが、自分の音域に合った曲を選ぶことも大切だ。
適度な飲酒はのどを潤す粘液の分泌を高めてくれるが、過ぎると声帯の粘膜が内出血を起こしやすくなる。のどを乾燥させるたばこは、煙がこもりやすいカラオケボックスなどでは特に控えるべきだろう。
声帯ポリープの切除手術を多く手掛ける日本耳鼻咽喉科学会認定専門医の先生は「歌が上手だねとか、高い声がよく出るねと、おだてられても調子に乗ってはだめ。カラオケに行ったら自分だけ楽しむのではなく、みんなのことを思いやることが、あなたの声帯を守ることにつながります。声がかれて1週間以上も元に戻らない時にはぜひ一度診てもらって」と話す。(トメ)
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by mako0491 | 2011-12-13 17:38 | アタマ記事

目の病



9・9付け
トップ記事


仕掛け図と写真、あと出しです。


(見出し)
患者増加傾向の目・耳の病気
 

正常眼圧緑内障と突発性難聴
いずれも早期治療開始がカギ



(前文)
 眼圧が正常なのに緑内障と診断される正常眼圧緑内障、片方の耳が何の予兆もなく突然聞こえなくなる突発性難聴。この目と耳の病気が最近増加傾向という。正常眼圧緑内障は症状の進行が緩やかだが、放置していると失明の恐れも。突発性難聴の原因は不明だが、ストレスや疲労の蓄積が引き金になるともいわれる。歌手の浜崎あゆみさんや大阪市の平松邦夫市長も発症したことで知られる。いずれも早期の発見と治療開始が症状の回復や進行阻止のカギを握る。
         (高堀 琴世)




・8割以上が治療せず
 目の網膜には120万本もの視神経が張り巡らされ、眼球の奥の視神経乳頭で束になって大脳に向かう(イラスト「目の構造」参照)。その乳頭部分で視神経が眼圧で押しつぶされると、脳へ信号の一部が届かず視野が欠けてくる。これが緑内障だ。
国内の患者は推定300万人。有病率は40歳代で2・3%、50歳代3・0%、60歳代7・9%、70歳以上13・1%と、年代が上がるほど高くなる(日本緑内障学会調べ)。
急性緑内障は眼圧の急上昇で目の痛みや頭痛があるが、全体の7割を占めるという正常眼圧緑内障は自覚症状がなく進行も遅い。このため8割以上の人が治療を受けていないといわれる。
視神経は一度失われると元に戻らないだけに定期的な眼科検診が欠かせない。近視の人や家族に緑内障の有病者がいる場合はリスクが高まるという。糖尿病患者はいったん緑内障になると悪化しやすいので要注意だ。

・点眼薬で眼圧一定に
正常眼圧緑内障も眼圧を一定程度まで下げてコントロールできれば、症状の進行を食い止められることが分かってきた。そのために有効なのが眼圧を下げる点眼薬。患者の年齢や症状の進行速度に応じて、レーザー治療や外科手術といった選択肢もある。
視野が正常かどうかセルフチェックしてみよう。新聞を広げ紙面の真ん中にマークを付けて片方の目でそれを見つめる。ページ全体が見えたら合格だが、一部でもぼやけたり欠けたりしたら早めに眼科へ。
ある40代の女性の場合、テレビで紹介していた自己診断で視野の一部欠損に気づいた。すぐに眼科を受診、正常眼圧緑内障と診断された。点眼治療で症状は落ち着いていたが、それでも心配で他の病院を再受診。医者から「点眼を続けていれば失明することはない」と保証され胸をなで下ろした。


・1週間以内に治療を
浜崎あゆみさんが突発性難聴に襲われたのは21歳の時、初の全国コンサートツアーの最中だった。ファン向けブログで3年前、「左耳はもう完全に機能しておらず、治療のすべはないと診断された」と告白している。
突発性難聴の多くは片方の耳に起き、同時に両耳に発症することはまずない。耳鳴りを伴い、発症時にめまいを併発する場合もある。メニエール病と違ってめまいを何度も繰り返すことはない。
音の振動は内耳の蝸牛(かぎゅう)で電気信号に変えられ脳に伝わる(イラスト「耳の構造と難聴」参照)。
突発性難聴はその電気信号のシステムに何らかの障害が起きることによるが原因は解明されていない。50代を中心に働き盛りに多い。
原因が不明なだけに治療法もまだ確立されていない。内耳の炎症を抑えるステロイド剤の内服・点滴をはじめ高気圧酸素療法、星状神経節ブロック、聴覚細胞の再生治療などが試みられている。
この病気は安静と早期治療が大切。できれば1週間以内、遅くても2週間以内に治療を始めること。難聴の程度やめまいの有無などにもよるが、早いほど回復の可能性も高まる。だが1カ月もたつと症状が固定し治療の効果もなくなってしまう。
浜崎あゆみさんはファンの期待を裏切れないと、一部公演を延期しただけで全国ツアーを継続。3年前、右耳に発症した平松大阪市長は公務に忙殺され、緊急入院までに1カ月近くたっていた。突発性難聴の場合、「もう一方の耳でコミュニケーションに不自由はないし、そのうち治るだろう」といった自己判断は特に禁物だ。
   
*目は以前取材した桑山泰明・大阪厚生年金病院眼科部長、耳は奥村新一・大阪労災病院(堺市)耳鼻咽喉科部長のお話を基にしている。
       
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by mako0491 | 2011-12-13 17:34 | アタマ記事