わかやま新報女性面 (隔週金曜日)記事を発信-NPO法人「和歌山コミュニティ情報研究所」の女性スタッフが取材・編集を担当


by mako0491

カテゴリ:オトコの独り言( 11 )

私の「おんな友達」

私の「おんな友達」


昨日、「S・ウイリアムさん」からメールが届きました。彼女は知る人ぞ知る和歌山の「ジャズ・ヴォーカリスト」で、30年余も前からお付き合いを頂いている方です。年に何回か、そのライブを聞かして頂いています。

久しぶりに彼女から「『4人の女のオモテウラ』と題して和歌山でコラボ・ライブを開きます。よろしければどうぞ」とお誘いがかかりました。

「女共の哀歌を心して聞かして頂きます」と予約のメールを入れると、すぐさま、『ひやー!、さて女の哀しみ、表現できますでしょうか。最近は「おかんのたくましさ、」「おバンの厚かましさ」が色濃くなっています(笑い)。奥様とお二人でお目にかかれるのを楽しみにしています。』との返信。 

男というものは、何歳になっても女性の前でいい格好をしたいものです。自分が定年(65歳)で現職を離れたとたんに、「20歳時代にギターを習い始めた時の動機」と全く変わりがない「想い」が胸に蘇りました。早速、自宅の押し入れからクラシックギターを引っ張り出したのでした。

「ジャズを格好良く演奏したい」。その格好の良さに魅かれて途中でウッド・ベースに転向しましたが、その「女性の前で格好良く」という不純な(純粋かな?)動機はついて回りました。その結果、今この歳になって、ざっくばらんに付き合ってくれている女性は音楽繋がりが多くなってしまいました。

想い出を遡って音楽繋がりを辿ってみますと、40年も昔、仕事の上で地域の大新聞支社の記者のたまり場で顔を繋いでおく必要から通った新内(あろち)の小さなスナックに辿り着きました。

経営者は弾き語りで名の知れた男性ピアニストでした。ジャズ・バラードを静かに、柔らかく聞かしてくれました。そのお嬢さんがお父さんの亡きあと、弾き語りを受け継ぎ、カラオケを置かないスナックとして常連顧客を引き付けました。バブル経済の盛り上がった頃でした。そのスナックに週に2回、アルバイトでジャズを歌いに来ていたのが、先のメールを頂いた「S・ウイリアムさん」でした。

旦那様は外国の方で、その指導によったものでしょうか、アメリカ英語で歌うジャズの歯切れの良いリズムと、情感の盛り込みに、素人の私なりに惚れ込んだものでした。

人の繋がりとは不思議なものです。この音楽繋がりがこんな形で更に拡がっていくとは、自分でも予想しませんでした。80歳になった今。自分の下手なウッド・ベースの技術を演奏の中に包み込んでもらえているバンド仲間のお陰で、更に女性仲間とのお付き合いが広まっているのです。新しく「オカリナのデユェット奏者」や、「キーボード奏者」が見事な演奏で私達とのグループに溶け込みさらに幅と深みを創り出してくれました。「女性の前で恰好を付けたい」。男の本性が私の生きるエネルギーまで生み出してくれているのです。

先日も、ある福祉施設の「七夕まつり」に招かれてバンド演奏をバックに「みんなで歌おう」の会で演奏をしてきました。会場の盛り上がりは大変で、アンコールも曲を重ね、

予定時間を20分も超えてしまう様なことになりました。私のアドレナリンは最高の水準で、湧出されている状態でした。有難い事でした。

これからは、体力勝負と自覚し「リハビリ・筋肉増強トレーニング」に励んでいます。男にとって女性は生きる力の根源だと今更ながら再認識しています。  (久山 みのる)


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by mako0491 | 2017-09-02 12:32 | オトコの独り言

「異端者よ出でよ」の嘘

可笑しなものです。世の男どもは、組織の長となると、「異端者よ出でよ」というセリフを、誰しも吐きたくなるようです。

 異端者というのは、伝統的な組織風土や、現在の組織トップのリーダーシップ・スタイルなどに反好意的意識を持つ者の事でしょう。余程の大きな深い度量を持つトップでない限り、通常はその異端者の考えを素直には聴けません。 

その事を、本当に身をもってトップが知るのは、その組織が生きるか死ぬかの瀬戸際に至った時か、死ぬと決まってしまってからです。

バブル経済崩壊後、日本の4大証券の一つと言われていた会社の代表取締役が、テレビの大写し画面の中で、大粒の涙を流しながら世間にお詫びの言葉を述べたシーンを記憶している人は多いでしょう。そのトップは消えてゆく企業の後始末に奔走した最後の経営トップでした。

 大粒の涙を流したその証券会社のトップは、今どうして生きていかれているのでしょうか。私と同年代の男であっただけに気になって仕様がありません。

 企業の競争社会では一位と二位の差は月とスッポンの差なのです。自分の所属する企業がトップ集団で走る努力もしないで、評論家ぶって自分は組織内での異端者だとパフォーマンスする奴の傲慢さ・勝手さは鼻持ちなりませんが、「異端者よ出でよ」と叫ぶトップの欺瞞にも鼻持ちがなりません。

私ならさらに鼻持ちならない手法を身に付ける努力をします。マラソン競技と同じ、「トップ集団には必死について行く力を身に付ける。出来ることならトップの肩口で、その息遣いが聞こえる距離でついて行き、風圧やトップを維持したいというストレスはトップに背負わせて、最後のトラック競技に入り、ゴール寸前に余力があれば抜き去ればよい」と思う。余力があれば最初から正々堂々とトップを走ればよいという立派な人もいる。

そんな勝負をして、いったい何の意味があるのかと問われれば、「そんな世界で生きることを選んだのだから」という以外に言いようがないのです。

「面白いよなあ、人生って」という歌の文句を思い出しながら。

         (久山 稔)


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by mako0491 | 2017-08-20 19:45 | オトコの独り言

otoko

問題解決能力に疑義<>

最近自分で分からなくなったことがある。「自分の能力って何だ」という事である。今までは確たるものが有った。「問題解決能力だ」と信じて疑わなかったからだ。それが揺らいでいるのである。

昨年からその揺らぎは大きくなった。きっかけは、将棋の世界で、プロの元名人のタイトル保持者とコンピュータ・ソフトとの対決でプロ棋士が負けたことであった。

 元名人位者は過去の知識や経験の蓄積を基に、相手に勝利することを狙って全知全能を振り絞ってコンピュータ・ソフトに対決したに違いない。「問題解決能力」の戦いである。そこで生身(なまみ)の人間が負けたのである。

将棋のゲームの進め方を知っている人は、誰しもこの揺らぎを感じ取ったに違いない。名人位のプロの能力がたまたま劣っていたと片付けられる問題ではないのである。自分自身の日常生活の問題解決能力も同様の問題を持つという事を知らされたからである。

 「自分が身に付け知っているというノウハウの値打ち」に疑義が生じているのである。昔から「知っているという事と、出来るかという事は別だ」と、先輩からよく叱られたものだ。「知っていても、出来なければ意味がないではないか、理屈を言うな」と言うのである。

今やまさに将棋の世界でも、「知っているか」ということも、「出来るかと」いう事も、コンピュータの能力に劣る世界が来たのである。

(久山 稔)


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by mako0491 | 2017-04-02 15:30 | オトコの独り言

otoko hitorigoto


私たちは毎日他人と顔を会わせれば、何らかの形で意思を交換している。仕事の場や組織活動の場となると、発信の仕方、受け止め方が複雑になり、果たして自分の意思表示が相手に本当にそのまま伝わったのかどうか安心ならない。

「場の心理」という話を聞いたことがある。相手の真正面に座った時、そこには「論理」の場が生まれ、肩が触れ合うほどの横に並んで座った時、そこには「情」の場が生まれるという。自分の「背後」の場は「恐怖の場」であり、身構える心理の場であり、頭のてっぺんの空間は「神様の場」で、何か有難いご宣託がおりてきそうに感じる場だそうな。

私達は生まれて母に抱かれた瞬間から、自分にとって快い環境を求めて、泣いたり、笑ったりして、母へ意思を伝えようとする。瞬間々々の行動が次の行動の為の学びの場となり、成長に伴い、効果的な自分の意思の伝え方を身に付けていく。「場の心理」の活かし方など、人間の知恵というものだろう。80年もその経験を積み重ねてきた私の様な人間は、その学びの場から多くの手法を身に付けてきた。私の決めた手法の一つは、次のような事である。泥臭く、底が浅く、いやらしいと思えるほどの手法だが、それが現実の知恵だと思っている。

相手から私に何か問題指摘の意思表示を受けたら、「ほんまやなあ・・・」と間髪入れずに言葉で受け止める。相手の立場で主張するとすれば尤もなことだと思い、反発心が心の中に生まれても、まずそうする。横に座ってリラックスの姿勢をとる。相手はさらに自己主張を続ける。「ほんまにそうやねえ・・・」を繰り返す。そうして言葉の間を狙って話題を転換する。

言葉の切り出しは「それはそうとして・・・」である。続ける言葉は身近な言葉ほど良い。「この間、○○さんにお目にかかったよ。頑張っておられるんだってねえ」。心理の場はその時変わる。しかし本当に共感した瞬間だけの言葉で、自分の心に噓をつくことだけは避けねばならない。噓の心は目の色に現れる。人間社会って難しいと、オトコの独り言をつぶやくのである。

(久山 稔)
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by mako0491 | 2017-03-02 18:44 | オトコの独り言

「リ」が作る新しい世界<下>

前回に続いて「リ」について考えてみました。

極端な例を示しましょう。人間は必ず死ぬ。焼却炉の中で灰になる。一部は骨壺で保管されるが、そのほとんどは焼却炉の中に残る。

その後どうなるのでしょうか。細かく砕かれて無機物になる。それを永久に貯め置くことは物理的に不可能。その砂のようになった無機物は、原油が精製された残滓などと混ぜ合わされてタール状になり、舗装道路の表面に敷き詰められる。立派で快適な道路が再生されます。

さらに、その後はどうなる?車のタイヤで舗装道路の表面は削られ、粉塵となり周囲に飛び散る、そこで土に還り、雑草を芽生えさせる。壮大な「リサイクルの旅」です。現代社会の技術革新のスピードは目覚ましい。

あっという間に素材の活用範囲は広がり、想像もつかなかったエネルギーや生物や製品を生み出してゆく。まさに輪廻の世界です。

そこで前回に触れた「後期高齢者の年頭指針」に話は戻ります。

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 80歳も超えた自分。典型的な核家族化の流れの中で生きた世代です。転勤族となって、大半は単身赴任生活。子供夫婦もまた同様の道をたどっています。家族の絆など、懐かしさ・いとおしさの感情の中に残っているだけです。「絆」(きずな)などもはや無くなりました。

 さて、「おまえの今年の生きる指針は?」と自分に問いかけざるを得ない破目に陥ってしまいました。夕焼けした雲に向かって、大口を開いて“アッハッハッ”と笑い飛ばす以外にありません。無責任のほどをお許しください。

講談社現代新書に『生活不活発病とは何か』という本があります。著者は大川弥生(医師)です。「動かない人は病む」。「動かないと、することが減る。筋肉も頭脳も使わなければ衰えます。その機能が弱ると、更にすることが減る」。

この悪循環こそが病源です。薬はありません。「することを増やすことです」。後期高齢者は経験で培った貴重な能力を活かし社会活動に参画することが最高のリハビリです。先生は大声で叫んでおられます。ご参考に。

                                   (久山 稔)


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by mako0491 | 2017-01-30 18:02 | オトコの独り言

リ・ユースなど新たな枠組み

 人間というのは神代の昔から、集い踊り歌うことで世の憂いを吹き飛ばし、自分の幸せな一生を願って生きる動物であったようだ。

中でも女性は、子を産み育てる役割を担う事からか、そのエネルギーたるや、男性には及びもつかない強さを持っているように見える


今の時代もそれは健在である。地域社会でのどんな集まりであろうと、参加者の数は圧倒的に女性が多い。働き盛りの男性はそんな暇がないという事を差し引いても、いかにも少ない。熟女は毎日、大型テレビから飛び出してくるほどの勢いで、その姿を画面に映し出している。


それに比べて、かつて知恵と体力を誇ってきたはずのシニア世代の男性というのは、いったい何処に潜んでしまったのだろうか。こんな状態を続けていると男性は知・情・意の力量のレベルで、女性に大きな差を付けられてしまうだろう。この格差は恥ずかしい。

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近頃、頭に「リ」のつくカタカナ言葉が氾濫している。リサイクル、リハビリ、リフォーム、リフレッシュ、挙げればきりがい。「元の姿に戻す」という意味の「リ」だとは誰でも知っている。「今年のあなたの年頭指針は?」と真面目な顔で聴かれるときょとんとし、シニア世代の男ならは恥ずかしそうな顔をして、この「リ」のつく言葉からついどれか一つ選び出してしまいそうだ。


ところが社会意識の変化というのは不思議なものだ。「リ」のつく言葉でも次々と新しいイメージを持つ言葉を生み出している。リサイクル(再循環)、リハビリ(社会復帰療法)の世界から「リメイク」「リ・ユース」と進むと「創造」のニュアンスが加味されて、少し夢のある世界へと変わってきている。捨てたものでもないなと思い始めた。


「リメイク」は懐かしい昔の歌曲を今の社会に合う様に作り替え、基本メロディーは活かしながら、リズムや演奏和音や歌手も選んで、イメージを作り変えている。それで再びベストセラーに浮かび上がっている歌曲も少なくない。


少し聞き慣れない言葉ながら、「リ・ユース」(再利用)となると考える枠組みの姿が更に違ってくる。思っても見なかった創造の世界へ足を踏み入れた感じだ。

                                    (久山 稔)


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by mako0491 | 2017-01-12 14:20 | オトコの独り言
6.26掲載
アリストテレスの「中庸」が訴える

 社会・経済活動が成長率とか株式相場だけでは計れぬ、何かよりどころにする理念・目標が必要ではないかと、 最近、痛切に思うようになりました。柄にもなく生きる拠り所を探しています。

 そんな中、アリストテレスの哲学が私に相性がいいような気がして、わからないままに、調べています。古代の哲人が唱えるのは「中庸」です。

  二極分化が進みすぎた極端社会日本に、中庸というキーワードが新鮮な響きをもちます。

  アリストテレスの「二コマコス倫理学」によると、大胆、放埓、派手は「超過」であり、臆病、無神経、細かさは「不足」。これらの中庸.は勇敢、節制、剛毅である。単なる量的な中間でなく、理性の知見によって定めるというわけです。
 
 彼らは アテネの広場に集まり政治談議をしたり、雄弁術を聞いたりした。古代の広場の中心地は社会のあらゆる情報交換の場でもあったわけです。民主制度は均衡のとれた中庸人間から始まったといえましょう。

  現在の消費社会を、中庸の視点から見ると意外に新しい像が浮かんできます。中庸をくだいて言えば「ほどほど」の意味ではないでしょうか。

 「断舎離(だんしゃり)精神」にもどこか通じます。
 断――不要な物を絶つ、買わない
 捨――持っているものを捨てる
 離――執着しない、物欲をなくす

 供給側の企業などを見ても、「ほどほどに売って、ほどほどに利益をあげ楽しい経営をしたい」というベンチャ―系の若手経営者もいます。「ほどほど経営から心の余裕が生まれる。 もうけすぎると傲慢になる。 もちろん利益は必要、中庸のサジ加減が経営者の仕事だ」と。
  
  超高齢化社会の暗いイメージだけがどんよりたちこめる我が国。その中で、ほどほどの自己実現が図られれば幸福だといった中庸人間の生き方が求められてくるのではないでしょうか。 

 ギリシャはいま、派手、放埓、無神経で国家財政が危ぶまれているほどの体たらくですが、古代ギリシャの哲学者の生き方などしばらく追ってみようかと考えています。
                                                  (坂東  誠太郎)
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by mako0491 | 2015-06-25 14:04 | オトコの独り言
3.6掲載

「美の代名詞」いなく、多彩な個性競う

 まずちょっとしたクイズ風問答を。

  「長雨が続くと整形がはやる」、その心は?「3泊4日の旅行を取りやめて、整形にやってくる。3、40万円前後の資金をそこに費やす」そうです。女心は微妙です。

  美人論が一時流行ったことがありましたが、最近は下火に。でも、オトコたちは勝手な事をつぶやきます。
まず歴史的な系譜を見てみましょう。(「Global Messenger LINE」のコラムなど参照)

 飛鳥時代は、高松塚古墳壁画などを見ると、ふっくらした輪郭、切れ長の目が美人とされていた。
 
 平安時代には、しもぶくれ、細い目、おちょぼ口、サラサラの長い髪――。和歌を詠む能力といった教養も美人の条件でした。小野小町・和泉式部・藤原璋子・常盤御前ら色んなタイプの美人が有名。
 
  鎌倉、南北朝時代の武士の時代になると、平安朝の優雅な印象は薄まり、「武士の時代の女」になっていき、人間的に活動的な女性の方が好まれたようです。。
 
 さて現代――映画・テレビをはじめとする動画が日常化するなかで、静止画的な美しさだけでなく、動的な美しさも評価の指標です。だから原節子・吉永小百合というような「美の代名詞」的な表現は少なくなっているのでは。

アニメの美人顔と伝統的な美人画の様式は全く異なりますが、共通点もあります。口が小さい女性像は平安時代からの名残りと言います。

 これから特に求められる条件は個性、スリムでないグラマー、ウイット、笑い、機転。単なる顔の造作の整い具合だけでない、仕事美人、知的美人、性格美人――オトコの勝手な願望は続きます。

また女性は孤立して存在するわけではない。男性とのネットワークの中で、より美しくなるというのが理想。男も魅力を持たねばという結論かも。

 美は全存在から発するものなのでしょう。個人的には中谷美紀さん。余人をもって代えがたい、と言えば言いすぎでしょうか。
                                (利根 聖太郎)
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by mako0491 | 2015-03-08 18:57 | オトコの独り言
<高齢化と環境問題解決目指す>

最近、「プラチナ社会」という言葉をよく聞くようになりました。
東大総長も経験した三菱総合研究所理事長の小宮山宏さんが中心になって提唱
しています。

プラチナ社会とは、一言でいうと、現在の日本が抱える高齢化問題と環境問題
を解決した新たな社会像の事を指します。

シルバーではなく、プラチナと名付けたのは、金より上質で品格を感じさせ、
輝きを失わない明るいイメージがあったからだそうです。

プラチナ社会が目指す姿は、高齢者だけでなく、多世代がいきいき暮らし、
活躍できる成熟した社会。具体的には、多世代が交流できる社会的な仕組みを
つくり、環境問題と結びつけながらそれを産業化することを目指すと解説して
います。

そのためには、環境、医療・健康、教育、インフラ整備等の分野で解決すべき
事が山積しており、マクロ的には、まさに「アベノミクス」の宿題と言えるの
でしょう。

そんなに難しく考えなくて良いのかもしれません。私たちの仲間で月1回、
異業種、異なった世代間交流のサロンを開催していますが、そこに集まる元気
な参加者を見ていると、小さなプラチナ社会の実践を重ねているような気がし
ます。

スモールビジネスですが、シニアたちがちょっとした報酬を得て、そこに来る
仲間と自由に語り合い、共感する時間を過ごすーーそんな良い風景があちこち
に広がっていくことが、プラチナ社会を形作っていくのかもしれません。
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by mako0491 | 2014-08-24 16:42 | オトコの独り言

ジルバ復活は塾年に託す


3.28掲載

 最近、ジルバを踊る機会があった。学生時代の体育クラブ資金獲得ダンスパーティでの経験が役立ったというわけだ。パートナーの女性の上手な技術にも助けれ、仲間の拍手も応援になった。

 戦後すぐの邦画の名作にはよくダンスホールが出てくる。
「入場券とティケット十枚を買って入ると、赤と緑のミラーボールの下で、けたたましい曲にのって十数組の男と女が狂ったようにジルバを踊っていた」(植草圭之助「わが青春の黒沢明」)
 
 ダンスホールは無頼な青春をおくるアプレーゲールのたまり場になっていく。
「酔いどれ天使」(黒沢明監督、昭和23年)は、どす黒く濁ったドロ沼と、熱気のこもったダンスホールを鮮烈に描くことによって、戦後すぐの時代の気分をとらえていた。
 
 上流階級の社交としてのダンスは「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督、22年)が最後の輝き。
没落華族の父(滝沢修)と娘(原節子)が鎌倉の海辺の豪邸でタンゴを踊るフィナーレは美しかった。

 さて、いま街の社交ダンス教室やホールが静かな人気らしい。熟年組がその中で、ワルツ、タンゴからジルバ、マンボまで軽快な足どりを披露する。

 一人踊りにあきたヤングも興味を持ち始めた。ディスコが人間関係から逃げようとする時代の象徴なら、社交ダンスは人間関係の復活。

 ダンス文化を再生させるのは「狂ったように踊った」ことがある熟年たちか。

                               (水上 真琴)












 
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by mako0491 | 2014-04-11 16:41 | オトコの独り言